その1 – 無痛分娩は一筋縄ではいかないヨ。

鈴虫の声が日に日に艶を増してゆくと、去りゆく夏の喧騒はずいぶん昔のように感じられます。静かな夜、机に向かい、無痛分娩のアンケート用紙をながめていると様々な思いが頭をよぎります。もうかれこれ無痛分娩と本格的にかかわり始めて5年以上がたちます。多くのアンケート用紙が私にお産とは、よい医療とは、母性とは何かと語りかけてくれているようです。医師となって麻酔科医局に所属していた最初の5年間はめまぐるしい大学の手術室、救命救急センターの勤務に追われ、ほとんど出産の現場には立ち寄れませんでした。

本当に無痛分娩と正面から向き合ったのは産婦人科の教室へ入局しなおしてから4年目の冬、東京都広尾にあるN医療センターへ1年の約束で派遣に出たときからです。産婦人科の責任者は鬼をも泣かす天才医師、杉本先生と言うお名前の方でした。勤務初日の最初の数時間で産科、婦人科に分け隔てなく、すべての点で私を数ランク上回っていることが手に取るようにわかりました。ご自身に厳しく、部下にはさらに厳しく、患者さんにはとても優しい先生で、大変人気がありました。ついでになぜか女医さんにも優しかったようでしたが。「あー、蔵持君ね。今度無痛分娩をきちんとやろうと思うんだけど、文献を調べた上に勉強会をやるから準備してください。」ある日、医局で一息入れていたとき杉本先生に突然指名され、なるべく避けて通ってきたその分野へ一歩を踏み出すことになりました。なかなか最初の一歩を踏み出せなかったのにはいくつかわけがあります。麻酔科医局在籍時代、恩師の教授にこう念を押されました。お酒のとても好きな、好々爺風教授はニコニコしながら、「蔵持君、今度産婦人科に行くんでしょ。だけど麻酔ができるからって無痛分娩に手を出そうなんて思っちゃいけないよ。」「はあ、どうしてですか。」「絶対に感謝されないんだよ。良かれと思ってちゃんと痛みをとってあげても後で恨まれちゃうんだよなー。ふしぎだねー、はっはっは。」恩師麻酔科教授は若い頃若い女性に散々うらまれた経験があるらしいのです。そのときはそんなものかな、程度の認識でした。

その程度の認識ですまなくなったのは年間2000例にも及ぶ出産数をこなすN医療センターで、壮絶な陣痛の苦しみに耐え忍んでいる女性をまのあたりにしてからでした。その患者さんはもう2日2晩も陣痛に苦しんだ挙句、先行きの見通しも暗く、憔悴しきった様子でした。直接の担当患者ではなかったものの、後輩の医師に相談され「先生、何とかして上げられませんか?」と話しを持ちかけられました。すでに麻酔科の医師の手で硬膜外ブロックが施されているはずなのに、一向に効き目がありません。鬼の杉本先生の目を盗むように今までの経過や麻酔の手順を再確認すると、色々とこまごました問題点が浮かび上がってきました。専門的な話はしませんが、ちょっとした不具合をいくつか直してみると痛みはみるみる消えてゆきました。ついでにお産の進行もかえってうまく進み、何とか下からのお産(経腟分娩)をすることができました。嬉しかったのは、半死半生だった患者さんの表情が朗らかな笑顔に変わってゆき、冗談さえ交える雰囲気となったことです。私には単純にそう映りましたが、この経過をちらりと眺めていた杉本先生にはまた別の思惑があったようです。「いやー、蔵持君。ああいうケースはてっきり帝王切開だと思ってたんだがね。無痛分娩なんかでうまくゆくこともあるんだね。ふーん」

古典的というか日本の正統派産婦人科学的観点から無痛分娩は邪道のひとつと考える先生が大多数にのぼります。ただし、あくまで日本の産婦人科医師に限ってはと言う注釈が必要です。私もこのときは知らなかったのですが欧米各国、特に米国での状況は産婦人科医療に無痛分娩は必要不可欠・中心的位置を占めています。無痛分娩施行率は平均でも50%をこえ、州によっては90%に達します。文化、習慣、風習の違いがあり、一概には比較できません。しかし、日本の無痛分娩実施状況とはまったく異なっています。ゆくゆくこの原因をお話する機会があると思いますが、後に譲ります。

無痛分娩なんかでうまくゆく・・・この一言には現在の産婦人科医療を端的に言い表しています。もちろんわたしもある意味ではその医療の中で育ち、その世界の言葉をしゃべる一市民であることを自認していますが。無痛分娩・なんかで・うまくゆく、、、。詳しく説明をするときりが無いのでごくさわりだけ説明します。なお、わたしは決して日本の産婦人科医療を批判的に見ているわけではありませんので好意的な解釈に過ぎるかもしれません。(1)無痛分娩・・・無痛分娩は産婦人科領域と麻酔科領域のどちら側にも属する医療です。どちら側にも属するとは責任の所在が曖昧で、どちら側にも属さないことにもなりかねません。当然無痛は麻酔科、分娩は産婦人科の領域です。しかしそれらを受ける妊婦さんは一人ですし、帽子とマスクをつけるような、1+1の仕事感覚ではうまく機能しません。無痛分娩は原則的にどちらからも手を出しにくく敬遠される、いわば産婦人科と麻酔科の非武装地帯、38度線とでもいう領域に存在します。(2)なんかで・・・患者さん、医療従事者を含め日本では無痛分娩が贅沢、嗜好品的医療と見なされています。産婦人科医師から見ると美容形成、豊胸術程度と同格とみなされます。一方麻酔科医師から見るとその扱いは鬼門に近い感覚です。(1)で述べたように産婦人科と麻酔科の不透明領域にある上、癖がありすぎ通常の麻酔科医療の感覚と大きく外れているポイントがいくつもあるからです。私の恩師・麻酔科教授がかつて味わったように母性の琴線に触れるおそれ、ないし触れたのではないかというおもい、通常麻酔科業務について回る生命危機管理がない、分娩の進行が麻酔科医師にわかりにくく、手術中の麻酔管理とまったく手順が異なる点、特に無痛といえども本当の無痛状態にしてはならず、痛みを残さなくてはならない麻酔が無痛分娩の基本であること、他の麻酔業務で忙しく、とても手が回らない、などが考えられます。(3)うまくゆく・・・うまくいった分娩は経腟分娩(下からのお産)で、失敗したお産は帝王切開分娩だ!だ!。ある病院の産婦人科医療を評価するのに分娩の帝王切開率というのがよく用いられます。帝王切開せず、いかに経腟分娩で赤ちゃんを取り上げたかが分娩医の技量とみなされています。しかしその指標だけがときに一人歩きしてしまう危険性を常に頭の片隅においていなければいけません。

さて、その後わたしは何とか無痛分娩の文献を調べあげ、まとめを杉本先生へ提出することができました。そこまでは良かったのですがその実施手順をナース、助産婦を含めた産婦人科スタッフに説明した勉強会の光景がいまだに忘れられません。うかつにも後で考えてみると思い当たったのですが、N医療センターは自然分娩を強力に推し進める助産婦さんが大勢いました。表向きはN医療センターに所属するすべての助産婦さんがその方針をすすめるということになっています。もともとN医療センターのなかに長い伝統と格式を有する助産婦学校があり、そこの卒業生が産婦人科病棟の婦長以下、有力スタッフのほぼ全員を占めています。婦長、主任が主催者をつとめる、とあるお産の市民団体が存在し、なんとナースステーションがその本部を事実上かねていたようです。団体の名前を堂々とナースステーションの一番目立つ壁に掲げていました。市民団体の趣旨は日本の産科医療を横暴な医師から守り、助産婦の手で少しでも良くするというものでした。

たしか月曜日の夕刻、20畳ほどもあるミーティングルームへゆくと、いつもは参加しない非番の助産婦さんまでぎっしりと立て込んでいる光景にまずは違和感を感じました。

ミーティングは前週の出産症例すべてにつき杉本先生へ報告を兼ねて検討を行うものであり、時には助産婦さんまでとばっちりを喰う危険性のある、スリリングな時間です。私は何とか切り抜けていましたが、研修医にとっては楽しいひと時とはいえないものです。まずは通常の症例検討が行われ、いよいよ無痛分娩の勉強会に移ります。様々な資料を参加者に配り、たしか数十分をかけ無痛分娩を行う意義から、実際の医師、看護婦さん向け実施手順、私が不在時の麻酔科応援体勢まで丁寧に説明したつもりでした。杉本先生はじめ諸先生方からいくつか技術的な質問があって、一段落したあと、見慣れない看護婦さんがいきなり立ち上がりました。目つきの鋭い、おそらくは看護部長か、総婦長か名乗りませんでしたが、病棟でお見かけした記憶はありません。こちらを睨み付けたあと、周囲の助産婦を見回しながらながら、「いったいどうしてこのような人工的手段をわざわざなさるのですか。まったく意味がわかりません。そもそも私たちは今までずっと患者さん本来が持っている権利を守り通してきて、母性を保護すべく・・・(途中省略、覚えていません)・・・なんです!」演説内容はすべて医師=悪者、強者、助産婦=正義の味方、患者の味方、であり、その闘争史をとうとうと述べていました。まったく技術的、医学的観点とは関連の無い、ましてや無痛分娩とも無関係な市民団体式観念論をこの場で繰り広げても対応のしようがありません。ちなみに赤鉢巻は締めていませんでしたが。何分にも及んだ、素っ頓狂な、あまりの名演説が終わったあとは私の番です。「えーと。まあおっしゃるとおりのところもあると思いますが、今回の勉強会は患者さんの要望にこたえるための純粋に医学的な検討会です。色々ここでは過去の歴史もあると思いますが、無痛分娩はN医療センターにとってまったく新しい手段の一つだと思います。すべての患者さんに行うわけではなく、必要な妊婦さんに行うやり方ですね。無痛分娩は完璧なものでもなく、僕らからみてまだよちよち歩きの赤ちゃんみたいなものですよ。皆さんの保護が無いとうまくゆきません。どうか温かく見守ってください。」くだんのこわもて演説家は、まだ鼻息荒かった様子ですが、これ以上議論をしても意味がありません。なんとか若い、無痛分娩に本当は興味津々の助産婦さんの心に私の思いが届くことを祈りながらその場はお開きになりました。幸いにもその後雄弁家のボス看護婦さんに捕まることはありませんでした。

一部の冷たい視線を無視しつつ、私は自然分娩の本丸、N医療センターで無痛分娩症例を重ねてゆきました。失敗は許されません。無痛分娩を行った後、妊婦さんに必ずアンケートを書いてもらいました。回を重ねるうち、冷たい助産婦さんたちの反応が少しずつ和んでゆく様子が面白いように感じられました。きっと本物の無痛分娩を見たのは初めてなのでしょう。実際に分娩介助で体験した事実は彼女たちにとって宇宙を見た少年の感動にも似たものだったかもしれません。「本当にありがとうございました。また、無痛分娩でお願いします。」幾人かの患者さんにそういわれました。しかし、私の気持ちにある、いくつかのしこりは最後まで解消しませんでした。

杉本流極意の、ごく一部を学ばせてもらった私は派遣期間の一年が過ぎると複雑な心境のまま予定通り大学医局へ戻りました。何度か超自然分娩教団の筋金助産婦と大喧嘩小喧嘩をした後、杉本先生には申し訳ありませんがN医療センターの派遣切れはこれ幸いという気持ちでした。狂信的な彼女たちに多少の揺さぶりをかけたであろうことは想像できました。が、それとは別に日本の大規模、中規模病院で、産婦人科勤務医のまま理想とする無痛分娩の環境を築くことが如何に困難か、技術面を除いても大きな障壁のあることに私は落胆しました。そうです。大病院内で無痛分娩をきちんと行うには一人ではかないません。きちんとした体制、システム、人事面、金銭面をも含めた強固な取り決めが必要不可欠です。はっきりいって麻酔科医師の絶対数が足りません。産婦人科医師、助産婦の痛みに対する観念が変わらなくてはなりません。耐えかねる痛みに耐えることばかりが美徳ではありません。耐えすぎたあげく、産声の記憶のない妊婦さんの、なんと多いことか。耐えかねる、痛みについぞ耐えかねて、産声知らず、思えば涙

またもや医局の派遣で恐縮ですが、とりあえずは派遣先大学病院の講師となった私は、その地で日常診療の他にまたもやこつこつと無痛分娩症例を重ねてゆきました。地方特有の、おおらかな雰囲気の病院で、また、立場上多少の自由を許されたことを幸いに、限定販売という形で無痛分娩の切り売りを行いました。

 帝京大学ちば総合医療センターHpより

今度は超自然分娩教団が存在しないため、前にも増して手法に少しづつ改良を加えたり、バリエーションとも言うべき方法を増やしました。私が行う現在の無痛分娩手法はこの段階でほぼ確立したことになります。2つ目の英語研究論文がまとまったのを機会に私は産婦人科勤務医を終了しました。そして千葉の地に長年の念願であった産婦人科、麻酔科双方を標榜する病院の開設にこぎつけることができました。わたしにとってこの開業は医学部に入学した18歳以来、約21年目の重要な通過点のひとつです。一昔前は勤務医に一区切りがついたり、勤務医に飽きると「開業でもするかな。」程度の認識でお医者さんは開業していました。しかし、現在ではこのような認識で開業を行っても、そこそこの程度でしか医療を行うことができません。よっぽど余ったお金がない限り、自分の狙い通りの診療をすることは困難です。特に産婦人科の場合、医療内容の変化が激しく、集約、高度化していて、小規模であっても分娩を扱う以上、純粋に産婦人科学の技術だけでは対応が困難です。理想の分娩とは、理想の無痛分娩とは、理想の開業診療とは、、、、、これからも常に私の頭を悩ませるテーマであり続けることでしょう。夜も更けて来たので、今夜はこれで失礼します。