その2 – 麻酔科医は人知れず、の英雄だ。

昔を思い出しては人に語ることを老いの心境に入るとも言います。眠れない冬の夜に、ふとしたことがきっかけで昔の仕事が鮮やかによみがえりはじめると、枕は一層柔らかくなってはくれません。隣で寝る妻のいびきは恨めしく思うほど健やかです。振り返ってあしり日の英雄たちはにこやかに微笑みかけてきます。一秒一秒が不安との戦いだったあのころと、今をつなぐ記憶の航跡は未だ消えてはいません。航跡は常に後ろへ流れ去ります。でこぼこの白波は遠くへゆくにつれ、次第に滑らかとなり水平線のかなたに消えてゆきます。

 

 

いつのまにか、かつての青春号が記憶の航跡をさかのぼり忍び寄ってきたようです。おおいなる希望のセイルと船底にほんのちょっとの後悔を載せた、その青春号。ここからは90度変針しましょう。安らかな眠りをいざなう夢の国へむけて。先導は今宵不眠症気味の私がゆるりと勤めてゆきたいと思います。あのころの英雄たちを探しつつ。

 

 

私が麻酔科医師を志した動機に明確なきっかけがあったわけではありません。子供のころから痛みに弱く、小学校の集団予防接種をいつもずる休みしていた私にとってお医者さんとはこわいこわい存在そのものでした。医学部に入学し、将来は産婦人科医を志そうという考えは早々に固まっていました。このことについては別の機会にお話ししましょう。一方、本当にそれでいいのか、それだけかという漠然とした未解決部分が頭の片隅にくすぶっていました。もやもや部分がなんであるのか、わずかな解決の糸口を見いだしたのは医学部5年生に進級し、麻酔科の臨床実習を行うようようになってからの事です。麻酔科の講義(大学の授業)ではそれなりに勉強していたつもりでしたが、その日の朝のことは今でもはっきり覚えています。いつもの臨床実習3人組はその日も例の如く白衣の鎧と医学参考書を隠れ蓑、いや最大の武器に真新しい病院ビルの手術室すぐ脇、麻酔科医局に乗り込みました。

 

母校日本医大。写真正面2階に麻酔科医局がある。

 

聡明なその麻酔科助教授は、時刻どおりにそろった我々にまずやさしく問い掛けました。「麻酔科って何するところか知ってるかな。じゃ-蔵持くん。」私は自信を持って答えました。「はい、痛みを取る仕事です。」「う-ん、帰っていいよ」温厚な助教授の目が悲しそうです。私の大脳皮質は必死に過去の講義内容を探ります。え-っと、たしか全身管理とか言ってたかな。きっとこれだ!「いえ、術中の全身管理を行います。」凍りついた助教授先生の目がふっといつもの温厚な表情に戻りました。「そうだね。よく知ってるね。うん、いいね。」冷や汗問答の後は楽勝でした。手術室内の各部屋にある麻酔機材を各々説明していただいたあと、型の如く手術中の様子を見学し、一通りの基本的麻酔科講義が行われた後、昼前に無罪放免となりました。講義の内容は例の如く生理学を基本とした難解なもので、系統講義(教室での授業)ではきっちり覚え込んだはずでしたが、我ながら迂闊でした。樹をみて森を見ずとはまさにこのことです。机上の学問だけでは済まないのが医学のこわいところです。この日をきっかけに私は麻酔科に強く関心を持ち始めました。

 

 

 

その後次第に判明したことですが、私は麻酔科の臨床実習講義で麻酔科の実際を学ぶまでとんでもない誤解をしていました。�@まず、ドラマや映画の手術シ-ンに登場する、かっこいい外科医の後ろ、画面のすみっこに麻酔らしきものを担当している人間は、てっきり外科医の部下の技師か看護士だと思っていました。�Aまた、全身麻酔という言葉ももちろん知ってはいましたが、麻酔の空気を人が嗅げば眠くなり、おなかを切ってもいたくなくなる便利な方法かな、程度の認識でした。ついでに麻酔をかけすぎると目が覚める時期が遅くなり、例えば3日後に目が覚めたとか、1年後に起きだすのかな、という思い込みもありました。麻酔はマジックショーでやる催眠術の親戚だと思っていました。気味の悪い話を聞いたのは大学の講義(授業)で麻酔深度という理論を知った時です。軽く興奮する麻酔の深さが第2期(注;彼女がとてもきれいに見える時、)痛みが取れて状態の落ちつく時期が第3期(注;眠気まなこで見直した時、)呼吸やさらに心臓の停止する昏睡状態以降、つまり取り返しのつかないポイント(注;死ぬ時期、ほんと)が第4期であって、麻酔科の仕事は安全に手術中いかに麻酔深度第3期に保つか、これに全神経を傾けることにある、という大原則があります(注;筆者の理解)。それを知るまでは麻酔はかかり方によって死に至る、物騒なものだという理解は希薄でした。授業を聞いて�Aの誤解は早々に解けました。この駄文を読んで、へ-、そ-なんだと思う方も多いでしょう。

 

 

厄介な誤解は�@の、誰が麻酔をかけているかということです。ことの始まりは言葉から来ています。麻酔という言葉、つまり麻=大麻、で酔わせる=痛みを取る、と誰しも思います。思うはずです。なんと優雅な響きでしょう。ここまで現実の麻酔科業務とかけ離れた言葉はそうざらにはないと私は思っています。臨床実習が進んでゆき、実際の手術麻酔をよくみると、まず、麻酔をかけている人間は技師ではなく、当たり前ですが麻酔科医師でした。どうしてお医者さんの仕事でしょう。じつは麻酔をかけ、その上手術をするということは恐ろしく人間を危険な状態にすることにほかならないのです。先程ちらりと触れたように、麻酔深度第3期(痛みを感じなくなり手術ができる時期)と第4期(死ぬ時期)はぎりぎり隣り合わせなのです。紙一重といってもよい間隔です。第3期が第4期に突然いかないように、麻酔科医師は手術に際し常に患者さんの顔色をうかがい、たくさんのモニタ-機器を駆使しています。こうして手術とともに忍び寄る、もろもろの危険を遠ざけ、安全裏に患者さんを病室へ戻すことが麻酔科医の第一の仕事なのです。麻酔科医師が存在しないふた昔程前までは、メスを握る外科医がこの紙一重の監視役をかねていました。当たり前のことですが、手術が複雑な場面になったり、トラブルに見舞われると監視役としての仕事ができなくなります。一方でメスを動かしながら、一方では調子の悪くなった、エンスト寸前の心臓の世話をする羽目になります。その結果、側に立つ看護婦を叱りつけ、何とかしようと試みることになります。死に神を時として追い払えなくなるのはこういうときなのです。残念ながら、ふた昔前までの手術室では、普通にみられる光景だったようです。キ-ワ-ドは「安全」です。

 

 

メスを握るものはメスを、心臓を握るものは心臓を、と手術室内での医師の仕事を分担したのが麻酔科医誕生の始まりです。手術室内で生じる突発事故に対しても外科医側と麻酔科医側とで責任が分けられました。良く勘違いされるのですが、麻酔科医は外科医の部下ではありません。ついでに上司でもありません。対等の立場として仕事をする仲間、イコ-ルパ-トナ-といいます。通常麻酔科医は手術室内での責任者を勤めています。急患の手術室受け入れ、帰室(手術後の患者さんが病室へ帰ること)、執刀許可などの決定権を持っています。救急患者が発生した場合、手術担当の医師は自己判断で患者さんを手術室内へ連れて行ってはいけません。多少省略する場合もありますが、安全な手術を行うのに必要最低限の検査と、現在の状態を書類として担当の麻酔科医師、多くの場合麻酔科責任者へと提出し、許可を得なければなりません。逆に麻酔科医が手術室入室許可を与え、患者さんが一歩でも手術室に踏み入れたら、直接の手術操作以外、生命を守る第一の責任は麻酔科医にかかってきます。たとえ救急救命センターから蘇生を行っている最中の患者さんであっても例外ではありません。残念ながら現代の大学病院にブラックジャックはいません。

 

 

今でも大学の麻酔科で勤務していた頃に、しばしば救命救急センターから来る瀕死の患者さんを迎え入れるときの緊張感は忘れません。重い鉄製ベッドを6~7人の医師やナースが取り囲みつつ、人工呼吸用の風船をふかふかさせながら患者さんは手術室入り口にたどり着きます。麻酔科医たちはおもむろに患者さんの体につながる密林状各種チューブ類一本一本をチェックし、病状を把握しつつ速やかに手術室内部へと搬送してゆきます。あふれる自信と淡い困惑が若い麻酔科医のトレードマークでした。

 

 

話がずれてしまいました。ずれたついでにもうひとつ。大学病院では颯爽とした麻酔科医も世間ではやはり認識が薄かったようです。大学病院と同じく派遣先病院でもつっぱりを通す気位の高い先輩医師は大勢いました。外科医や産婦人科医師と手術室でケンケンがくがくやりあった類の話は昼ごはんのたびに出てきました。こういった話を聞くことはちょっと小気味よく、研修医の自分が偉くなったような気がしてきます。ところがそれから数年後、麻酔をなんとか一人で行えるようになったある日、ようやくわたしの出番がやってきました。とある東北の田舎脳神経外科病院へ定期的に麻酔アルバイトをしに行くようになったときの、ある些細な出来事はいまだに覚えています。無論その病院に麻酔科医の存在は私一人です。勢い込んで病院に着いたもののその日はあいにく手術がありませんでした。脳外科の先生たちが一生懸命外来診療をしている中、一人遊んでいるのもよくないと思い、簡単な一般診療の外来を手伝うことになりました。転んでひざをすりむいた、程度の診療内容です。ある時、外来にその病院の古手ナースがひょっこりやってきて、「あのー。わたし風邪引いちゃったんだけど、先生って風邪薬とか処方してもいいんでしたっけ。」申し訳なさそうにわたしの顔をうかがいます。がーん。わたしが通常の医師でないと思ったのでしょう。顔を引きつらせつつ、何とか笑顔で「ええ。大丈夫ですよ。にせ医者じゃないんですから。はっはっはっ。」どうやらこの地方では古手のナースと言えども麻酔科医師を実際に見たことはほとんど無かったようです。麻酔科医師は歯科医師や放射線技師と同様、一般の医師の資格がないと信じていました。涙。あふれる自信とつぶれる自信が若い麻酔科医のトレードマークでした。

 

 

麻酔科医師の存在がもっとも必要とされる場所=手術室。だけにとどまりません。その代表選手が救急救命センターです。私が医学生だった頃、麻酔科の主任教授を勤められている目つきの怖い老先生は、麻酔科医の草分けでした。若い頃外科医として修練を重ねたあと、米国へ渡り、麻酔科の研修を一から授かり、颯爽と日本へ帰国。その後彼は大学病院で麻酔科医局を創設し、まさに麻酔科神代時代の一人となりました。優秀な臨床医としての素質の上、強烈な個性とまさに天才とはこのことだとうならせる、輝ける研究実績を着々積み重ねてゆきます。それらを原動力に、この先生はついに日本でも屈指の救急救命センターとICUを大学病院に開設しました。

 

麻酔科医が救急救命センターをつくる?わたしはかつて学生のころこう疑問を抱きました。この疑問は臨床実習が始まるとすぐに氷解しました。死と隣り合わせの患者さんを少しでも生の状態に引きずってゆくことは、真っ先にその人へ新鮮な酸素を吸わせ、その力で心臓を何とか止まらないようにすることが第一に求められます。おなかを切ったり、縫ったりする外科医の仕事はその次の順番です。けっしてこの順序が逆にはなりません。すると、その第一の仕事(蘇生と言います)を取り仕切るのは誰でしょう、麻酔科医そのものです。では、そんな面倒なことをせず、外科医が第一の仕事を兼ねればいいじゃないか。入り口の仕事を兼ねるだけなのに。ぜんぜん違いました。麻酔科学とは蘇生・麻酔科学と正式には言います。人の体は死と隣り合わせの時ほど、蘇生理論の正確さ、迅速さが生還率を左右します。残念ながら、今日の医局教育体制では外科医にそれは求められてはいません。オーバーワークです。逆に麻酔科医にメスを握る厳しさも求められてはいません。蘇生学、蘇生技術を1から100まで、順を追ってきっちり学ぶ場所は麻酔科医局しかありません。残念ながら目つきの怖い老先生らが書いた麻酔科教科書を1ページ目から学ぶしか、麻酔・蘇生学を修める方法はありません。それを修めた者が救急救命センタ-のぬしたる資格を有するのです。

 

 

念願かなってわたしが救命救急センターへ正式に派遣されたのは麻酔科医となって4年目の春でした。麻酔科のホームグラウンドである手術室は病院の2階、救命センターは1階を占める施設で、近くて遠い場所でした。私の所属した麻酔科は定時手術の麻酔を行うだけが仕事ではありませんでした。年間百数十件を越える救命センターからの麻酔依頼を受け、さらに外科系医局からも緊急手術の麻酔依頼を連日無制限と言っても良いほど引き受ける、かなり過密スケジュールの観をなす医局でした。もちろん急患の受け入れで質・量ともにもっともハードなのは救命センターがらみのものです。当直明けなどない麻酔科当直医はその日の定時手術もやっと終了し、遅い夕食をぼそぼそ食べ始めます。さあやっと一眠り、という深夜に麻酔科医局のドアをノックする救命センタ-の依頼は緊張の完全徹夜を約束します。

 

 

麻酔科医局の扉。今でもノックの音は覚えている。いい音がする。

 

昼間の麻酔科エ-ス達もさすがにうんざり顔は隠せません。こういう事情も踏まえ、救命センタ-の野戦病院的雰囲気を心のそこから受け入れない誇り高き先生方が大勢いました。自然と麻酔科の救命センタ-に対する感情は悪くなりがちです。むしろ手術のない、清潔然としたICUを支持する考えのほうが麻酔科医局では多数派を占めていました。一方で、将来産婦人科医を目指す私にとって救命センタ-は是非ともくぐるべき門の一つだと考えていました。当時麻酔科での私のポジションは大学院生で、学位論文も一段落し、半年間の院内出向が許されていました。他の医局へ出向する場合研修医扱いとなるところ、救命センタ-とICUだけはいきなりチ-ムのリ-ダ-、またはサブリ-ダ-となることができました。これ幸いとばかり私は救命センタ-へ行く希望を出し、晴れて勤務につくことができました。麻酔科から過去に救命センタ-へ出向した風変わりな先輩がたから概ねの様子はうかがっていました。案の定、そのうららかな春の初日から、目まぐるしく世界が急回転してゆきます。新任なのにサブリ-ダ-として蘇生の責任者となり、救命センタ-内での麻酔業務も率先して担当しました。ほかに麻酔科の正規教育を受けた医師は他大学から研修目的で出向してきた10年目の先生一人しかいません。したがってやるべき仕事はいくらでも見つかります。同時に麻酔科医の片手間では到底勤まりきれない、学問としての奥行きが芒陽と広がっていることがいやが上にも実感できました。時々手術の助手のそのまた下請けをさせてもらったことがありましたが、もちろん全く歯が立ちませんでした。餅は餅屋、手術は外科系医師へということでしょう。ちなみに意外なことに麻酔科医は外科系医師の分類となっています。救命センターでの経験は麻酔科の、わたしにとっては第一段階レベルの総仕上げという意義と、その後産婦人科臨床を学ぶ基礎と言う意味で、大変貴重な時間となりました。多分に中途半端ではありましたが。

 

 

救急救命センターは、その名前から想像するよりずっと落ち着いていて、静かな時間が流れていたように感じます。もちろん、急患が来たときの緊張感は生半可なものではありませんでしたが、指導される先生方はみな寡黙で、粛々と仕事をされていました。へとへとな割には仕事帰りの夜空にいくつもの星が輝いて見えました。

 

 

 

 

病院玄関入り口近くに咲き乱れるさつきやつつじは一階の救急救命センター医局からも、二階の麻酔科医局からもきれいな彩を見せてくれました。それらはわたしのまわりを囲んだ無数の英雄たちに今でもやさしい空気を与え続けていることでしょう。