院長夜話その7 ああ無痛分娩応援歌
――無痛分娩の恩恵をすべての女性に
提供 朝日新聞社
日本で無痛分娩は圧倒的少数派です。
無痛分娩を提供する病院が最近少しづつ増えてきたことを耳にします。大変望ましいことです。しかし詳しく見てゆくとその恩恵にあずかるチャンスはまだ少数派のようです。(下の図 海外各国の無痛分娩割合)実際に無痛分娩を受けられる病院を探しあぐねて困っている妊婦さんは大勢いらっしゃいます。日本で無痛分娩を受けることがどうしてこんなに難しいのでしょう。ネットで「無痛分娩」と検索するといろいろな反応を見ることができます。残念ながらそのほとんどは医療従事者でない方々の体験談だったり、新聞記者の紋切り型レポートです。無痛分娩がなぜ少ないのか、その原因や解決策を示すものはほとんどありません。中には無痛分娩をいさめる内容のものまであります。日本で無痛分娩が少ないのはどうも原因が一つではないようです。
複数の原因がありそうです。それらの原因を少しでも解明しようと筆者なりの工夫を加え考えて行きたいと思います。なるべくわかりやすい言葉とわかりやすい流れに沿って解説してゆくつもりです。多少の専門用語が出てきたり、そのわりに学術的考察は乏しかったりしますがご容赦のほどを。無痛分娩を希望されている方々に少しでもご理解の助けになればと思います。
無痛分娩・暗闇の迷宮「困難の塔」を登り切りましょう
まずは無痛分娩を受けるチャンスが少ない理由を大雑把にその「需要」と「供給」に分けて考えます。無痛分娩で生みたい=需要、と無痛分娩ができます=供給、ともに日本で異様に低いことが知られます。なぜでしょう。真相はどこにあるのでしょうか。私はそこに暗闇の迷宮「困難の塔」がそびえていると思います。何の与太話かい、と思われる方もいるでしょう。しかしこの「困難の塔」をきちんと正面から見据え、正体を明らかにしたうえで一歩一歩踏みしめて行けばきっと誰でもその頂上へたどり着けるものと信じています。頂上には青空が澄み渡り皆さんの無痛分娩を邪魔するものはもういません。以下に無痛分娩を妨げるくせ者とその周囲に巣くう疑問点、注意点など、つまり暗闇の迷宮「困難の塔」の正体を私の個人的見解とつたない経験を交えて皆さんにわかりやすく解き明かしてゆきましょう。
1970年大阪万博 : fukafuka’s photo blog (exblog.jp)より
餅から生まれたモチコとその子コモチです。合言葉は「もちろん!」です。
無痛分娩が少ない理由を解析してゆきましょう
闇の迷宮「困難の塔」の入り口です。中に入る前に少し考えを整理しておきましょう。
需要=無痛分娩をしてほしいと思う人の数 供給=無痛分娩を行う施設の数 |
に分けて原因を追究します。この項では需要と供給の問題を大まかに探ります。
まずは供給の問題からです。当然のことですが供給=提供する施設(病院、クリニック)が圧倒的に少ないことは明らかです。ここではわかりやすく無痛分娩の供給=提供施設問題をその供給施設の「場所」と供給の「タイミング」の2 つに分けて考えます。(上の図、無痛分娩はなぜ少数派? 需要と供給に分けて考える、をご覧ください。) 供給施設の「場所」は大学病院か、その他市中・中小病院、個人開業クリニックの2 群に分けます。供給の「タイミング」は無痛分娩をフルタイム、無制限に提供するか、無痛分娩をするのに強い制限を付けたり、実質無痛分娩無し、という2 群に分けます。そこから導き出される結果は以下のようになります。(下の図、無痛分娩の提供 場所/タイミング別結果)
大学病院では少数ではありますがフルタイム、無制限に無痛分娩を提供するのに成功しています。(ただし少数)。一方その他市中・中小病院、個人開業クリニックではフルタイム、無制限に無痛分娩を提供できる施設はほとんどなく、(僅少)逆に制限が多いか、実質無痛分娩の提供をしないパターンが大多数(圧倒的多数)となります。残念な事実です。なお正確な統計データがなく日本語的表現となっているのはご勘弁を。ではなぜそうなるのでしょう。後ほどさらに解析してゆきましょう。次に需要の問題です。運よく提供する施設があってもなお実際に無痛分娩を受けるには別のハードルを越える必要があります。なぜでしょう。需要=無痛分娩を希望する人の割合も日本ではとても少ないのです。(次項無痛分娩不要論でご説明します。)ここからは需要の問題を少しだけひも解いてゆきます。無痛分娩のチャンスを少なくしているセカンドハードルは妊婦さんとその周囲を取り巻く方々の「心」にあると思います。無痛分娩に興味はあるけど何となく怖い、痛いお産を我慢することこそ大事、お産は自然のものだから無痛分娩は邪道、などなど無痛分娩に否定的な考えをお持ちの方が多数いらっしゃることは皆さんもよくご存じでしょう。この点も後ほど詳しく解析してゆきます。無痛分娩を提供する施設の数の絶対的不足、タイミングの強い制限、さらに無痛分娩を受け入れない「心」が相まって、令和の日本では無痛分娩率が先進国を含め最低の約10%未満という低率にとどまらせています。次項で「心」の問題を考えます。
無痛分娩は必要なの?
=無痛分娩不要論
無痛分娩不要論です。無痛分娩の需要が少ない理由の1 番目です。基本的に無痛分娩が必要か否かは妊婦さん個人の傷み具合によります。ただし痛みを伴わない出産は例外を除きあり得ません。出産は激痛です。わたくしは幸い出産経験がないのでわかりませんが出産の痛みを軽減させることはどう見ても必要です。逆に出産の痛みを我慢して得るものは何もありません。ではこの無用な痛みがあるにもかかわらず無痛分娩を拒む心の正体とは。古来より日本では耐えることが美徳と信じられています。なぜでしょう。出産の痛みは耐えるほか手段がなかったからです。すると激痛の出産に耐えること、我慢は善悪でいう善と教えるほかありません。我慢教と呼びましょう。もはや文化ないし宗教の一種です。
妊婦8420 人にお産方法について聞いた 無痛分娩希望は18.3%と意外な結果に|たまひよ (benesse.ne.jp)より
「おしん」はAmazon Prime Video より
Benesse・たまひよが2021 年に初期妊婦8420 人に行ったアンケート調査によると無痛分娩を希望する妊婦さんの割合はわずかに18.3%にすぎないという結果でした。人類の女性はすでに250 万年も我慢をしてきました。もう我慢しなくてもいいと思います。我慢教の神は退散。「心」を素直にリセットしましょう。「無痛分娩はお金が高いから我慢すればお金が浮くんだ!」その通りです。では無痛分娩の費用を考えなくてもよいくらい安い費用ならどうでしょう。欧米各国では普通のことです。きっと誰もが無痛分娩を希望すると思います。ではどうして無痛分娩は進まないのでしょう。実は無痛分娩不要論の「心」の上に待ち構える次なる関門があります。
無痛分娩は自然に反する行為なの?
=無痛分娩不自然論
無痛分娩の需要が少ない理由の2番目です。厄介です。「分娩は本来自然の営みである。したがって・・・」このフレーズはわたくしが生み出したものではなく、日本の某助産師団体がかつてそのホームページ上に真っ先に掲げていたスローガンです。今でもえらい助産師が執筆した助産師向けの教科書や助産師あがりの新聞記者が書く新聞記事の随所に顔を出します。この一文には様々なメッセージが込められています。分娩は自然である。すなわち医療ではありませんよ、との強烈な主張です。かつての西洋で暗黒時代と呼ばれた中世にも出産の痛みは罪に対する罰だ、との宗教的教えがあり長い間信じられていました。根本の考えは同じですね。少し解説しましょう。分娩は自然=医療でない、ので産婦人科医、ましてや新参者の麻酔科医が出しゃばってくるのは間違い、なので、お産を取り仕切るのは私たち助産師である、と理解しなさい、です。ははぁ。ちなみに私たち助産師の行う業務は医療ではなくケアだ、だから自然だ、との理屈、屁理屈もさりげなく入っています。趣旨は反医療団体そのものです。正確には、でした、と言い方を緩めましょう。かつて日本に幅広く存在いていた反~団体の類です。ちなみに最近では大分トーンダウンしています。今はこんな感じです。妊娠出産ケアの充実 〈基本的な考え方〉妊産婦が正常な妊娠・分娩・産褥経過をたどれるように支援することの重要性を再認識するとともに、助産師主導のケアシステムのますますの安全とケアの質の向上が図れるような活動を行っていきます。(日本助産師会ホームページ、日本助産師会中期ビジョン2025より引用)。「助産師主導のケアシステムの・・・・残念ながらまだ少しとげが残っているようですね。私はかつて日本の助産師さんの職場で最強と言われた東京都内の、たしか赤新月十文字医療センター(間違っていたらごめんなさい、仮名)産婦人科に在籍していたころ、一人で無痛分娩の導入を試みその説明会をしようと四苦八苦していました。案の定赤鉢巻をまいた病院中の助産師に説明会場で取り囲まれてしまいました。普段は美しい瞳の彼女たち、あまり美しくないメガネの看護部長の目玉に憎しみの炎が渦巻いていたのをいまだに思い出します。先にあげた「我慢教」の宣教師ですね。既に無痛分娩の手法は医学的にほぼ確立しています。諸外国ではもう一般的です。目の前に麻酔法があるのにそれを無視して「痛いのは自然のことだから、はい、頑張りましょう」と激痛に苦しむ妊婦にやさしそうに説明することは正確に言うと虚偽の言動だと思います。少なくとも無痛分娩法があることを、あるいはないことをあらかじめ妊婦さんに説明する義務が医療従事者にはあると思います。無痛分娩は既に不自然な存在ではないことは明らかです。その恩恵に浴する機会を医療従事者が妊婦さんから奪うことがあってはなりません。
無痛分娩は片手間にできるの?
=無痛分娩片手間論とは
ここからは無痛分娩の供給が少ない理由を解析してゆきます。無痛分娩なんて麻酔の一種でしょ。しかも全身麻酔じゃなく局所麻酔の一種なんだから産科医が片手間にできるんでしょ。この意見は今でも年配の産婦人科医師の間で根強くはびこっています。もちろん妊婦さんも含め一般の方にも広く信じられています。「無痛分娩片手間論」=麻酔軽視の考えです。「はり、きゅう、麻酔」という言葉がかつてありました。鍼灸師の方に怒られそうですが、昭和のころの「麻酔」の地位を端的に表しています。次の項目でも詳しく述べますが、現在の無痛分娩≒硬膜外麻酔は産婦人科医が片手間にできる医療から遠くかけ離れています。
上の表に「産婦人科医師の感覚的キャリアパス」を示していますが、大学病院の産婦人科教授やその他の大学医局に所属する経験豊富な産婦人科の諸先輩方にとって無痛分娩≒硬膜外麻酔のポジション、興味、認識はとても低いものです。無痛分娩片手間論の正体です。よくご覧ください。ベランダに落ちた雀の糞あつかいです。教授を廊下で見たら敬して遠ざける、が定石ですが産婦人科医にとって無痛分娩は見下して遠ざける、が合言葉です。駆け出しの産婦人科医が麻酔科でちょっと研修すればできるようになる、と信じられています。実際にこの認識で無痛分娩に踏み切る若い産婦人科医は無謀な冒険家といってよいでしょう。青波高い太平洋にたらい船で漕ぎ出す行為と同じです。なぜでしょう。簡単な麻酔は産婦人科医でもできます。しかし少し込み入った麻酔は麻酔科医でないとできません。お産も同じです。簡単なお産なら麻酔科医でもできます。見ているだけでも生まれてくる安産もありますからね。でも少し込み入ったお産は産婦人科医でないとできません。当たり前です。この点は次の項目「無痛分娩片手間論の実害」で述べます。
私事で恐縮ですがわたくしの所持する普通自動車運転免許にはおまけで原付免許もついてきます。そんな感覚ですね。麻酔軽視=無痛分娩片手間論の考えがいかに根深いのか、その実害は何か。この項では根深い無痛分娩片手間論について詳しくご説明します。それによる実害は次の候で改めて述べてゆきます。まずは麻酔軽視=無痛分娩片手間論から説明します。公的な資料を参考にしてみましょう。昭和型の産婦人科医が考える麻酔軽視=無痛分娩片手間論の考えがよくわかります。2018年3月にまとめられた厚生労働科学特別研究事業編「無痛分娩の安全な提供体制の構築に関する提言」を見てみましょう。A4判プリント28枚にこれでもか、というほど産婦人科医療において無痛分娩を行う際の詳細な取り決めが事細かに記されています。内容はもちろん至極当然で、実質的に産婦人科サイドが作成したガイドラインもどきです。研究代表者の産婦人科諸先生方もわたくしが某大学産婦人科医局在籍時代に個人的に産婦人科学の教えを請うた恩師の教授で、内容は一言でいうとまさに「完璧」。少し長いですがその提言の最重要部分、(麻酔担当医の要件)全文を引用します。
————————————————————————————————– (麻酔担当医の要件) ・麻酔科専門医資格、麻酔科標榜医資格又は産婦人科専門医資格**を有していること。 **産婦人科専門医の場合には、原則として日本麻酔科学会麻酔専門医である指導医の指導下に麻酔科を研修した実績があり、自らの麻酔科研修歴及び気管挿管実施の能力を有することを示すこと。さらに、安全な麻酔実施のための最新の知識を習得し、技術の向上をはかるための講習会を2年に1回程度受講しその受講歴についてウエッブサイト等で情報を公開していること。 ・硬膜外麻酔について100例程度の経験を有することが望ましいこと。 ・安全で確実な気管挿管の能力を有すること。 ————————————————————————————————– |
この部分の、この文章をまとめた方も筆者のまた別の大恩師で、人伝えですがここは苦労したとおっしゃっていました。大変申し訳ありませんがそれはそれ、これはこれです。筆者が最も問題と考えるのは最初の項に出てくる
・麻酔科専門医資格、麻酔科標榜医資格又は産婦人科専門医資格**を有していること。
の件です。なぜ、麻酔科専門医資格、麻酔科標榜医資格と同列に産婦人科専門医=麻酔をする資格あり、としているのでしょう。産婦人科医師にとって麻酔なんか片手間でできるよ、と公に宣言しています。普通自動車運転免許(産婦人科専門医)におまけに原付免許(無痛分娩の麻酔資格)をつけているがごとくです。上記左の「昭和型ベン図の無痛分娩」をご覧ください。もっとも次の項に続く(**産婦人科専門医の場合には~)以下に念のためくどくど様々弁解しています。しかし、そこで述べられていること=基本的麻酔科技術を習得しましょう、とのお考え、言い訳こそが実は麻酔科標榜医の資格そのものですね。麻酔科の世界では麻酔科医療をもっぱら2 年以上行ったものに厚労省から与えられる資格を麻酔科標榜医といいます。ちなみに麻酔科を専ら3 年行って麻酔科学会から取得できる資格は麻酔科認定医、4 年以上行って専門医機構から取得できるのは麻酔科専門医資格で、いずれも麻酔科標榜医の事実上の上位資格です。
麻酔科標榜医とは 厚生労働大臣による許可の基準基準1 医師免許を受けた後、麻酔の実施に関して十分な修練(麻酔指導医の実地の |
さらに説明を続けます。上記右の(平成型ベン図の無痛分娩)をもう一度ご覧ください。無痛分娩≒硬膜外麻酔は両者の重なった領域です。くどいようですが産婦人科サイドの主張する(麻酔担当医の要件)は産婦人科専門医資格+数か月の麻酔科研修+あやしげな1 日の講習で成り立つキャリアではありえません。(麻酔担当医の要件)=わたくしが主張する(麻酔有資格者の要件)=麻酔科標榜医や日本麻酔科学会の認定医、専門医等を習得し、その上無痛分娩医療に携わり長い年月をかけ精通した経験を有することが麻酔担当医の要件です。上記の(昭和型ベン図)、つまり麻酔軽視の考えはいけません。残念です。昭和型産婦人科医のお考え=麻酔軽視=昭和型ベン図=「無痛分娩の安全な提供体制の構築に関する提言」=無痛分娩片手間論が沸き上がる、はおわかりになりましたでしょうか。
無痛分娩を片手間にしてみたら?
=顔を出す無痛分娩片手間論の実害
2番目の、麻酔軽視=無痛分娩片手間論の実害について説明します。無痛分娩片手間論、つまり先の産婦人科サイド発「完璧な提言」を大学病院の産婦人科教授がごり押しするとどうなるか。実害発生を理解する上での流れをまず説明し、その結果どのような実害が生ずるか、の順でご説明します。まずは実害発生の流れです。先の「完璧な提言」に私ごときがケチをつけるには大変おこがましいのですが、唯一、完璧な大学病院産婦人科大学教授でも把握されていない状況があります。それは事実上日本国内で出産の大多数を占めている下流の現場、人手不足の市中の中小病院、個人開業クリニックの出産現場では麻酔科医師が極度に不足し、産婦人科医師個人が実際に無痛分娩を行わなければいけないというつらい事実です。運が良ければ麻酔科医師が限られた時間のみ無痛分娩にたずさわってもらえるかも、と言い換えてもよいでしょう。
下流の現場は産婦人科医師個人が無痛分娩業務を「兼業」しないと日本の今の医療体制上無痛分娩は成り立ちません。出産は当然ながら日曜祭日よる夜中、24時間365日でやってきます。ブラックでもなんでも人手をやりくりしてなんとか産婦人科医師の勤務体制だけは確保し、その365日体制に合わせます。ても、数少ない常勤、非常勤の麻酔科医師までそれ(365日体制)につきあわせることは人手不足の市中・中小病院、個人開業クリニックにとって絶対に不可能です。「教授」以下人的資源が充実する上流の基幹大学病院では産婦人科、麻酔科ともに日夜研修医が有り余っており、無痛分娩の担い手は基本的に、例外なく麻酔科医師が行います。教授は考えて命令するだけです。実害発生の流れはお判りいただけたでしょうか。
ここからはついに顔を出した実害発生の結果をお話しします。さて、実害の流れは下流現場、市中の中小病院、個人開業クリニックの出産現場へと行きつきます。そこで最末端の若い産婦人科医師は麻酔軽視=無痛分娩片手間論でうたった提言の考えのみで、つまり数か月の麻酔科研修+あやしげな1 日の講習の麻酔経験のみで孤独な時間帯に無痛分娩を扱えるのかじっと胸に手を当て考えます。若い産婦人科医師は賢明ながら皆麻酔の怖さをよく知っています。リーガルリスク(訴訟リスク)の怖さもみなご存じですね。万が一麻酔関連の事故が起きても中途半端な麻酔知識、麻酔手法では誰も弁護しません。厳しい目つきをした熟練麻酔科医師が相手側に立った時、その追及は怖いですよ。ぶるぶる。無痛分娩にとって不利な要因が妨げとなり出産数の大半を占める市中の中小病院、個人開業クリニックの現場では残念ながら徹底的に無痛分娩は敬遠されます。つまりは理想の華と散ってゆきます。先の項目で説明した無痛分娩の供給問題で、市中の中小病院、個人開業クリニックでの無痛分娩実施は強い制限がかかる、ないしは実質提供無し、と解説しましたがその原因がこれです。こうして日本国内での無痛分娩実施率が10%を下回る日々が明日も続きます。実害発生の機序=残念な現実です。ちなみに今まで述べてきた大学病院とそれ以外の市中病院、個人開業クリニックの特徴や役割分担を以下にまとめておきます。筆者の個人的主観も多分に入っておりますがご勘弁を。
※厚労省無痛分娩の実態把握及び安全管理対策の構築について
元資料H30,4 11第61回社会保障審議会医療部会資料5より
PowerPoint プレゼンテーション (mhlw.go.jp)
無痛分娩は特殊医療なの?
=無痛分娩特殊すぎ論
無痛分娩は麻酔科的に見ても特殊な医療だと考えます。なぜでしょうか。それは麻酔科医師側からみても無痛分娩の実施が難しいからです。今度は麻酔科サイドから無痛分娩の特殊性を考えてゆきましょう。無痛分娩を行うには基本的に硬膜外麻酔という専門的テクニックが必要です。無痛分娩≒硬膜外麻酔とお考え下さい。硬膜外麻酔を出産時の妊婦に施し、痛みを軽減させる、この単純そうな一文を実行するにはいくつもの難しいハードルを潜り抜けないといけません。すなわち無痛分娩≒硬膜外麻酔は超・特殊・麻酔科学的医療である、との認識が必要です。前項で述べたように産婦人科医がちょっと麻酔科研修で教わったくらいの感覚で手を付けてはいけません。いわんや麻酔科医師でも敬遠するくらいの、いわば鬼門です。以下に解説してゆきます。(筆者の主観も入りますが。)
理由その1 硬膜外麻酔法は通常の麻酔科医療の中でも難易度が高く、敬遠されがちです。(硬膜外麻酔≒無痛分娩の特殊すぎ論1)硬膜外麻酔は失敗すると人の命に秒単位でかかわり、その代わり質を落とせば何とか代替法もあります。つまり避けて通ろうとすればずるがしこい抜け道も用意されています。この点はあとで述べます。硬膜外麻酔を麻酔科医師へ積極的、教育的に指導、施行しているのは全国の医学部大学病院の麻酔科医局でも実は少数派です。形だけ硬膜外麻酔をしています、的な施設は多いのですが、筆者が知る限りあくまで一応やっていますよ、レベルにとどまります。硬膜外麻酔をきちんと最初から最後まで単独で貫徹するには相当の見識と経験がないとできません。上に掲げた「麻酔科医師の感覚的キャリアパス」をご覧ください。無痛分娩≒硬膜外麻酔のポジションはかなり高く、習熟することは相当のレベルとされています。しかも立ち位置は孤立しています。私がかつて、麻酔科医師として派遣されていた、大きな市中病院の麻酔科にはいくつもの大学麻酔科医局から医師が派遣されてきていました。他大学医局の、とある...博学で尊敬する麻酔科医師はすでに麻酔科専門医(指導医)で、いつも麻酔について何でも相談に乗ってもらえるありがたい先輩医師でした。ただし、唯一の欠点がありました。硬膜外麻酔が全くできません。できないというより、本人的には「しない」という言い方でしたが。硬膜外麻酔には脊髄麻酔という代替手段があります。さすがにこの脊髄麻酔はどんな麻酔科医師にとってもいわば必修項目で、おできにならない先生はいません。わかりやすく言うと脊髄麻酔は硬膜外麻酔の元祖で、脊髄麻酔の欠点を改良、改善した、いわば進化版が硬膜外麻酔です。詳細は専門書に譲りますが硬膜外麻酔ができなくても脊髄麻酔と一般的全身麻酔がきちんとできればどんな臨床現場でも麻酔科医師として立派に通用します。麻酔科指導医の実技試験にも硬膜外麻酔の項目はありません。硬膜外麻酔はあればあったで便利には決まっているけどなくても何とか脊髄麻酔でごまかせる、それが多くの臨床にたずさわる麻酔科医師らの本音です。ちなみに脊髄麻酔では無痛分娩はできません。脊髄麻酔は硬膜外麻酔の代替手段ではありますが、無痛分娩だけは代替手段にはなりえません。硬膜外麻酔≒無痛分娩ですが脊髄麻酔≠無痛分娩です。こんなことがありました。ある日のこと、自分は担当ではなかったのですが腹部外科の長時間手術があり先ほどの尊敬すべき先輩麻酔科医師が担当していました。ようやくその手術が終了し様子をうかがいに手術室へ行ってみました。なんと先輩医師の苦手だったはずの硬膜外麻酔カテーテルがしっかり患者さんの背中に張り付いていました。これは手術後の鎮痛(痛み止め)として大変有用なものです。ああ、きちんとエピカテ(硬膜外麻酔用カテーテル)入れてるんですね、と感心してつぶやいたら、先輩医師の答えは「いやいや、一見エピカテにみえるけど実は皮下カテなんだな。」ぶつっと呟き「だから外科の先生には効きが悪いと言ってあるんだよ」でした。皮膚の下へ局所麻酔薬(痛み止め)を入れても無効です。むろん無害ですが。話が脱線しましたが硬膜外麻酔は麻酔科臨床の中で結構な特殊分野だという雰囲気がご理解いただけたでしょうか。
理由その2 出産時の妊婦に一見中途半端な硬膜外麻酔を施すことが無痛分娩の本質です。(無痛分娩の特殊すぎ論その2) 人気のない硬膜外麻酔をさらに不人気にさせる要因その2。なお要因その3、その4の理由も続きます。もう少しお付き合いください。理由その2、麻酔科医は痛みをとることがいわば宿命です。しかし陣痛期の妊婦に完璧な鎮痛は禁物です。陣痛の勢いがそがれたり、産道が弛緩しすぎて回旋異常(赤ちゃんの頭の向きがあらぬ方向へ回ってしまうこと)を誘発しやすくしてしまいます。出産後の出血量も無駄に増えるリスクとなります。痛みを取り除く割合は教科書的に決まっていて最高に痛い時を基準に半分ないし1/3程度が理想とされます。この鎮痛の度合い(痛みの取れ具合)は麻酔科医にとって感覚的に中途半端で、いわば生かさず殺さず、の気分に陥ります。私事で恐縮ですが、わたくしもこの生かさず殺さず麻酔が最初のころどうしても苦手でした。今は慣れましたが。まだあります。
理由その3出産時の妊婦に硬膜外麻酔を施すことは麻酔科医のいつもの仕事パターンと少し勝手が違います。(無痛分娩の特殊すぎ論その3) 無痛分娩≒硬膜外麻酔、のカウンターパートナー(相手)は助産師と妊婦です。中途半端な痛み止めをして、そのあげく効果を助産師や妊婦さんへ直接尋ねないといけません。しかも当然生きた会話です。これは一部の麻酔科医にとりかなり苦痛です。勝手が違います。通常、全身麻酔中に麻酔科医が患者さんと生きた会話することはありません。麻酔管理といって、眠っている患者さんの顔色や様子、様々なデータ、手術の進行具合を把握し、いわば架空の会話を患者さんとします。術中に生の会話をするのは担当医師や手術室スタッフに限ります。うそ、偽り、遠慮といった感情の世界とは無縁です。「もう少し頑張りましょう。」「少し痛いけど我慢してね」「かわいい赤ちゃんが待ってますよ」と無痛分娩中の、または無痛分娩をしない妊婦さんにもわたくしは心の底から湧き出る真実の応援をこぼれる笑顔でしています。仏頂面の若い麻酔科医は苦手意識を持つ場合が少なからずありそうです。
理由その4 出産時の妊婦に硬膜外麻酔を施す主導権は麻酔科医か。(無痛分娩の特殊すぎ論その4)無痛分娩≒硬膜外麻酔の出産現場における主導権は麻酔科医にあるのか、産科医にあるのかあやふやです。無痛分娩号という快適なジェット機の操縦席には麻酔科医と産婦人科医の二人のパイロットが並び、仲良く操縦かんを握っています。順調な飛行中であれば全く問題のないこの配置は、いったん嵐の中に巻き込まれると大変な混乱に陥ります。無痛分娩は無限に続けることはできません。麻酔の薬=局所麻酔薬には極量と言ってそれ以上使ってはいけない分量が決められています。難産が続き終わりのめどが立たないお産に遭遇することもたびたびあります。帝王切開手術に急遽切り替えないといけない場合もあります。麻酔の効果が思ったより不良のこともあります。その中で無痛分娩を続けたり、いったん中断するか、出産の展望を無理にも見通さないといけません。単に痛みだけをとるのではなく、続く帝王切開手術時にも耐えられるよう、局所麻酔薬の配分も決めないといけません。それらの判断は残念ながら麻酔科医単独ではできません。下からの出産をあきらめないといけない難産も含め、きわどい異常分娩の際、無痛分娩の主導権は最終的に産婦人科医へ委ねることになります。ここで例の「提言」がこの点についてもしっかり明示されています。この点に関して全く異論はありません。先の「提言」を示します。
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立派ですが少し煩雑です。完全に大学病院産婦人科向けです。ちなみに大学病院では無痛分娩も含み麻酔は麻酔科担当のはずですが麻酔科へ向けたポーズが見られません。麻酔担当医、との言葉が出てきますが、大学病院で麻酔科の支援が必要なら堂々と麻酔科担当医師、と「科」をつけるべきですね。人的リソースを無尽蔵に要求する書き方ですのでもちろん市中・中小病院、個人開業クリニック向けでないことも明らかです。私ならこのように書きかえます。
わたくしが持っている複数の無痛分娩の教科書の類にはこの主導権をどちらが握るのか、かなりあいまいに書いてあります。これら無痛分娩の教科書を執筆するのは無痛分娩を正確に理解する熟練麻酔科医師です。彼らの主張は強烈、明快で当然麻酔の主導権は麻酔科医にあり、産婦人科医が単独で麻酔を片手間に行う時代ではないと述べています。ある意味正しく、ある意味正しくないことはもうわかりますね。何回も述べるように最初に掲げた元の提言は大学病院向けマニュアルとしては完璧ですが人手不足の中小市中病院、個人開業クリニックには当てはまりません。いずれにしろ麻酔科医と産婦人科医のしっかりした協調が何より大切なことは共通しています。もっともわたくしの提案では市中・中小病院、個人開業クリニックの場合、基本的に麻酔科医師=産婦人科医師、で同一人物です。心の中で両者が葛藤することはしばしばありますが。キーワードは麻酔科医と産婦人科医はイコールパートナー、しかも臨機応変です。自由と平等のように、時に拮抗しますが、博愛で乗り切りましょう。
2009年03月18日付時事通信社より。
Wikipediaより引用。
理由その5 無痛分娩の仕組みを決めるのは麻酔科医ではなく産婦人科医なのか。(無痛分娩の特殊すぎ論その5)無痛分娩の仕組みとはつまり、無痛分娩の学術的評価や学会の位置づけ、それに基づくガイドライン作成、専門医制度やその認定、方向性の決定など無痛分娩の立ち位置、大枠のことです。分娩も含めた現場ではなく、その上位レベルでだれが無痛分娩を仕切るかという制度的問題です。令和の現時点では産婦人科医サイドが完全に無痛分娩の仕組みをコントロールしています。具体的には日本産科婦人科学会の関連団体である無痛分娩関係学会・団体連絡協議会、The Japanese Association for Labor Analgesia: JALAとさらにその下部組織である「日本産科麻酔科学会」のコントロール下にあります。
先に挙げた「提言」の中の残念な項目「麻酔担当医の要件」もここが出しています。そしてそれに基づき無痛分娩を行う産婦人科医、麻酔科医師にも様々な制約を新たに課しました。もう一度言いますが、無痛分娩を行う産婦人科医のみではなく、なんと麻酔科医師にも事実上の命令ともいえる仕組みを作りました。その表を示します。
麻酔科医師側が驚いたのは表中のカテゴリーB とC の麻酔科認定医、麻酔科専門医、麻酔科指導医にも無痛分娩を行う際にはこの表の一番下段左「JALA 認定の相当するコース」の各々J-CIMELS「硬膜外麻酔急変対応コース」とその横J-CIMELS ベーシックコースの受講が必要とされたことです。しかもそれらは各々ただの1 日のみの講習です。テストもありません。C の救急蘇生コースの内容に至ってはこの表での「無痛分娩研修終了助産師・看護師」が受けるものと同一です。麻酔、蘇生学の権威であり、難しい麻酔科専門医試験を終了した麻酔科専門医が助産師、看護師と同じ内容の講習を1 日受けましょう、とのご命令です。無痛分娩片手間論ですでにこの点は十分述べたのでここでは繰り返しませんが、この産婦人科サイドによる麻酔科サイドの蔑視、無理解による取り決めは麻酔科医サイドの総反発を受けたに違いありません。案の定麻酔科医サイドは無痛分娩のリーダーシップを組織的に奪い返しに出ます。今度は麻酔科医師による無痛分娩関連学会「日本周産期麻酔学会」を独自に作り、JALA=「日本産科麻酔学会」と交渉をました。そして、問題となっている表中のカテゴリーB とC の麻酔科認定医、麻酔科専門医、麻酔科指導医の講習要件を取り消すことに成功しました。日本周産期麻酔学会のHP に次のように書かれています。
2021 年 12 月 1 日に開催された JALA 総会において、麻酔科認定医・専門医・指導医はカテゴリーB およびC の受講対象から外すことが全会一致で承認されました。今後は「麻酔科標榜医の資格のみ、もしくは、資格を持たない麻酔科医」が JALA 講習会の受講対象となります(表)。なお、麻酔科医が無痛分娩管理者となる場合は、カテゴリーA の受講が推奨される点に変更はありません。本決定により、麻酔科医は他団体における講習会受講の有無を気にせず、無痛分娩/麻酔 分娩に関わることができます。(太字、下線は筆者による) |
なんとなくため息のでる状況でした。ちなみに筆者の知る限りではJALA のHP に上記内容はありません。貴公子然と無痛分娩に非協力的な麻酔科医サイドにその目を覚まさせたJALA 側、産婦人科サイドの意図もわかりますがね。さて、この項で最初に書きましたが無痛分娩の仕組みを決めるのはなぜ事実上麻酔科医ではなく産婦人科医なのか。この状況の発生源をもう一度整理しましょう。次のベン図をもう一度見てみましょう。
両方のベン図は無痛分娩片手間論=麻酔軽視の項目で述べましたね。産婦人科、麻酔科両者の力関係は個人同士ではイコールパートナーですが、組織としての力関係はいまだに昭和型ベン図そのものです。(と思います) |
日本周産期学会の趣旨は「麻酔科医が産科麻酔を学ぶ学会」としており、すなわち無痛分娩は麻酔科医が行う、と明確な目標を決めています。日本周産期麻酔学会は日本麻酔科学会の下部組織であり、産婦人科医は入会できません。ガイドラインとまでは行きませんが、無痛分娩マニュアルも発表しています。無痛分娩をよく知る麻酔科医師が作ったもので専門性が高く、丁寧かつ麻酔科医にとってわかりやすい内容です。筆者が見ても十分納得がゆきます。そこには産婦人科医の考案した、どう見てもおかしな「提言」はありません。産婦人科医が作る先達の日本麻酔学会と麻酔科医が作る日本周産期学会の両者が今後の日本の無痛分娩の動向を決めてゆくこととなります。\\
無痛分娩・暗闇の迷宮「困難の塔」を登り切る秘訣は?
長々お付き合いありがとうございました。ここまでの道のりを歩んでこられたら、もうこの暗闇の迷宮「困難の塔」の明るい頂上はすぐそこです。無痛分娩は人類史上初めて獲得した、私たちの輝かしい財産の一つです。ほんの数十年前には普及しえなかったものです。あとで振り返ってみるとその偉大さがわかります。後戻りはあり得ません。変革期の最中は中心にいる人間にはそれがわかりません。前例がない、の一言は適当なお役人にとっては正義ですが医療とは常に進歩の味方で、新しいこと、=ノイエスこそが正しいとわたくしは信じます。帝王切開手術も人類史上に輝く宝石です。それを、安全、かつ確実に手中に収めた恩恵を多くの女性が享受しています。むろんそれには産婦人科、麻酔科、新生児科等臨床医学のたゆまぬ努力や進歩、消毒液、抗生物質の発展といった基礎医学、要素技術等の発展も欠かせません。今どき帝王切開手術を否定する人は昭和の産婆でない限りいませんよね。江戸時代に生まれた女性はまともな帝王切開手術や麻酔を受けられませんでした。今の感覚では想像もしたくありません。のちの時代の人々から21 世紀の女性は出産時にまともな無痛分娩も受けられなかった、想像もしたくない、なんて言われたくありません。前置きが少し長くなりました。原因がわかれば暗闇も怖くありません。暗闇の迷宮「困難の塔」の地図を手にしました。ついにそれを登りきる強力な解決策を次の項(無痛分娩の需要を改善しましょう)から徐々にづつ解説してゆきます。
無痛分娩の需要を改善しましょう
無痛分娩は次世代のステップではなく、現世代の、すでに上がりかけたステップです。目を背けることはできません。後戻りもできません。市中病院や個人クリニックでの無痛分娩施行率の低さをどのように改善するのか、つたない試案をお示しします。最初に述べた無痛分娩の需要と供給の話に戻ります。まずは需要側の話から。「心」の問題、文化の話でもあります。
▲無痛分娩不要論改善策
基本的には自然治癒、自然消滅を期待するしかありません。利益相反関係のない新聞、雑誌社に産婦人科学会や麻酔科学会等が無痛分娩の啓もう活動を行うことも効果的。そもそも反医療系の新聞社は積極的無視を決め込むかも。つまり助産師あがりの新聞記者のいる新聞社はおそらく啓もう活動がボツる可能性大。動画系で無痛分娩のメリットをさりげなく流すのも一考の価値ありです。我慢教の女帝「おしん」のDVDは動画ですが古すぎですか。近年筆者が唯一目にした無痛分娩擁護の記事は令和4年12月6日付読売新聞にありました。例により情緒的内容ですが一読の価値はあり。 |
▲無痛分娩不自然論改善策
若い助産師さんや出来のいい看護師を味方につけ、まずは実践テクニックを実地に覚えてもらいましょう。無痛分娩のすばらしさを妊婦さんから伝えてもらうのも効果的です。どこかの国のへぼ将軍がいいことを言っています。やって見せて、言って聞かせて、やらせてみて、ほめてやらねば、人は動かじ。率先垂範ですね。誰かが看護師団体へ行き講演活動してくれるといいですね。 |
新麻酔産婦人科医師キャリアパスが無痛分娩供給不足を解決する切り札となる
▲無痛分娩片手間論・無痛分娩特殊すぎ論解決案
無痛分娩は供給不足でもあります。先に述べたように無痛分娩片手間論で産婦人科サイドより、無痛分娩特殊すぎ論より麻酔科サイドからの、両者から疎んじられる無痛分娩の特性が供給不足の一因ですと述べました。では解決策はあるのでしょうか。供給不足なら人を増やせば解決策になるのでしょうか。なりません。先出の一覧表「大学病院、市中・中小病院と個人開業クリニックの特徴や役割分担」で述べたように大学病院+市中・中小病院の無痛分娩率は4.8%に対し個人開業クリニックのそれは5.8%とむしろ後者が勝っています。無痛分娩の供給不足は人的リソースの少なさだけが原因ではないようです。むしろ麻酔科、産婦人科両者の専門研修制度に根本原因があると筆者は思っています。制度疲労と考えてよいでしょう。さっそく最善の解決策を考えてゆきましょう。無痛分娩を片手間でなく、特殊な麻酔に追いやらない最終的、かつ不可逆的な解決策です。それは先に示した産婦人科医師と麻酔科医師のキャリアパスを一部改正することです。細かな齟齬は後回しにしてその概略を示します。(下の図)
わかりやすく新麻酔産婦人科医師キャリアパスと名付けます。研修内容を説明します。初期研修医終了後麻酔科へ入局し麻酔科研修を約3 年行い麻酔科認定医を習得します。ここまでは普通の麻酔科医キャリアオパスと同じです。違うのはここからです。その後産婦人科へ再入局し、一般的産婦人科専門研修を始め、産婦人科キャリアを重ねます。以降は徐々に無痛分娩、産科麻酔領域、産科救急医療等を含む研究、教育、臨床にたずさわってゆきます。
この新麻酔産婦人科医師キャリアパスの第1 の目的は将来へ向け大学等医学教育機関で無痛分娩や産科麻酔、産科救急医学等の臨床、研究を行う指導者を育成することです。第2 の目的は市中・中小病院や個人開業クリニックでも無痛分娩を単独で行える麻酔産婦人科医師を育成することです。
新麻酔産婦人科医師キャリアパスの目的目的1 大学等医学教育機関で産科救急医療、無痛分娩等を行う指導者を育成 目的2 市中・中小病院や個人開業クリニックで無痛分娩を単独で行える麻酔産婦人科医師を育成 |
第2 の目的について少し説明します。残念ながら令和の現在には個人開業をし、出産を扱うことや市中・中小病院で無痛分娩を産婦人科医単独で扱うには従来の昭和的産婦人科医師キャリアパスのもとでは麻酔に対する危険(リーガルリスクも含む)が大きく、致命的です。確かに昭和の時代まではこのパスはとても有効でした。ところが産婦人科医の作った昭和型「無痛分娩の安全な提供体制の構築に関する提言」を真に受けて安全基準にしてしまうと当然令和の安全基準に通りません。もう先には進めないのです。あとで述べる麻酔=安全管理、の視点が欠けているからです。しっかりと制度設計を変更し、その上で新麻酔産婦人科医師キャリアパスを目指すことが無痛分娩の供給不足の最終的な解決策となります。
この目的2 を達成するとそこから副次的に(ついでに)生じるメリットがあります。一言でいうと産科救急、麻酔の自由度、安全度が格段にあがることです。メリットを具体的に見てゆきましょう。まず目的2 そのものがメリット1 となります。メリット2、それは人手不足の市中・中小病院や個人開業クリニックでより安全かつ確実に緊急の帝王切開手術を行えるようになることです。メリット3、さらに超短時間型のダブルセットアップ体制(下からのお産を急遽帝王切開手術に切り替えられるよう両方の準備をすること)をとることがより容易になります。3 つのメリットを下の表で解説、まとめます。
市中・中小病院や個人開業産婦人科クリニックで真っ先に差し迫る課題は24 時間365 日、日曜祭日よる夜中にいかに迅速に、かつ少人数で、しかも麻酔科医師不在下産婦人科医師ら独力で超緊急帝王切開手術(グレードA カイザーといいます)を始められるか、です。最近は緊急帝王切開手術の決定から児娩出(赤ちゃんが生まれること)まで30 分以内が望ましいとのルールができました。麻酔科医師の到着は待てません。その他の課題は時間的にずっと優先順位が低くなります。極端に言えば次の日に回してもよい案件になります。このグレードAカイザーの超短時間、30分ルールをクリアできるか否かはまさに生死の境目といってよいでしょう。産科救急、麻酔の自由度、安全度が増す恩恵は計り知れません。幸いこの3つのメリットの技術的習得には多少月日はかかりますが同時期に習得可能です。無痛分娩がしっかりとできる≒緊急帝王切開手術の準備ができる、≒ダブルセットアップ体制が取れる、とお考え下さい。無痛分娩の硬膜外麻酔をそのまま帝王切開手術に応用することをトップアップといいます。偶然ですが実はほぼ同じ麻酔手技です。上に記した☆硬膜外麻酔はダブル、トリプルに優秀、とはその意味です。トップアップの話題だけでも一冊の本になりえますが、現時点ではこの点は産科麻酔に習熟した麻酔科の先生たちが個人的経験を学会でひそひそ語り合っている状況です。(日向俊輔 無痛分娩からの緊急帝王切開 ~安全に、快適に、みんなで行うには?~分娩と麻酔105p22-p26)興味のある方はどうぞ。トップアップについてもガイドラインレベルまで考察が進むといいですね。なお本来のトップアップの意味は「満タンにする」です。言い得て妙ですね。わき道にそれました。私は3つのメリットの習得年限は3年ほどが目安と考えます。(上図の青い矢印の期間)それ以下では経験値が低すぎ、3年たってもできなければ麻酔の素質がありません。およそ3年間を産婦人科医局に在籍したまま麻酔科専門研修を学べるようにするのです。むろん麻酔科標榜医の習得も同時に行います。可能なら一つ上の資格、麻酔科認定医の習得も目指します。
新麻酔産婦人科医師キャリアパスはなぜ難産かその教訓と対策
この項では前項で解説した「新麻酔産婦人科医師キャリアパス」について今までなぜ実現しなかったのか、難産となり得る苦悩の背景説明をしてゆきます。なお筆者の主観と悲観も混じるので「教訓と対策」となります。難産要因その1 産婦人科的思考法と麻酔科的思考法の根本が違いすぎます。順に説明します。昭和の昔から産婦人科医師は数か月、通常3 から6 か月の麻酔科研修を行います。公式的にはそれで麻酔の研修は終了です。昭和的感覚であればそれでよかったか、いや、当時でもよくはなかったのですが、うやむやでした。現実的には数か月の研修で安全な麻酔はできません。さらに令和に入り令和の考える麻酔科的安全基準は昭和のそれと全く異なります。説明しましょう。まず麻酔科の考える脊髄麻酔、硬膜外麻酔は必ず全身麻酔が確実にできたうえで行うことが鉄則です。つまり麻酔=安全管理=全身管理=全身麻酔=蘇生術、の原則です。麻酔科学教室の正式名称は麻酔・蘇生学教室と考え、そのように名乗る教室も多数あります。翻って(ひるがえって)産婦人科では脊髄麻酔、硬膜外麻酔は簡単な麻酔なので全身麻酔ができなくてもしてよいとの昭和的スタンスです。麻酔を安全管理の一つととらえるか、痛みをとる医療テクニックととらえるかの違いですね。
初期研修中やその後の研修期間中、若い産婦人科医は数か月の麻酔科研修を終えると先輩
医師から「もう麻酔科は終わったの」とよく尋ねられます。元気よく、得意満面に「はい、終わりました」と答え、上記麻酔科的エッセンスは霧のように消えてゆきます。彼、彼女にとって麻酔科研修は終了したのです。この時点で麻酔科研修は本当に「終了」したのでしょうか。もうお分かりですね。わたくしは麻酔科側の安全に対する主張が正しいことを身に染みてよく理解しているつもりです。手術中の安全を管理する=全身麻酔を安全、確実に行う、には最低でも2年をかけた麻酔専門研修期間が必要です。それでも麻酔科的には最低条件にすぎません。先にご説明した麻酔科標榜医資格がこれに当たります。(先述しましたよね。)麻酔に対する基本的思考法、安全基準を無視し昭和型産婦人科サイドが無痛分娩=麻酔、の仕組みを構築してはいけません。無理強いです。教訓その1;無理が通れば道理が引っ込む。
難産要因その2 無痛分娩の要望がある市中病院での勤務を避け、また個人産科クリニックを新規開業しなければ基本的に大学病院産婦人科にいる限り無痛分娩や麻酔を自ら行うという危険な橋を渡ることはありません。「新麻酔産婦人科医師キャリアパス」を選択する理由もなくなります。賢い、またはずる賢い選択枝です。教訓その2;君子危うきに近寄らず。
難産要因その3 昭和の時代と比べ個人産科開業が著しく困難になってしまいました。そのためわざわざ「新麻酔産婦人科医師キャリアパス」を選択する動機もなくなります。産婦人科医の場合教授になる超優秀人材を除きその他一般の産婦人科医は大学医局での研修、教育を終えるとその後は市中・中小病院へ行くか個人クリニックで開業します。一昔前までは産婦人科専門研修コースを選択する動機の一つに将来的に個人で独立、開業できるメリットも十分視野に入っていました。このインセンティブは半ば公然の秘密でした。気に入った場所で気に入ったクリニックで気に入った手法で産科管理を行い、気に入ったご飯を頂く、これらはまぎれもない入局動機の一つです。ところが近年の難産率上昇、産婦人科医療訴訟件数の増大、帝王切開手術率増大に伴い出産を扱う個人開業産婦人科クリニックの新規開業は激減しました。産科開業願望が遠のけば「新麻酔産婦人科医師キャリアパス」の優先順位も下がります。教訓その3;開業医は崖っぷち。
ブラックジャックの家。産科の開業は崖っぷちですね。
ブラック・ジャック SPECIAL BJ FINAL・ArtWorks (tezukaosamu.net)より
難産要因その4 産婦人科的歴史と麻酔科的歴史が違いすぎます。実は麻酔科と産婦人科、双方の専門研修を行う考え方は筆者の昭和時代からもあり、筆者もさんざん各方面の先生からおしかりを受けました。令和の今でもきっと同じでしょう。歴史的背景が異なりすぎた結果相互無理解が溝となり、壁となっています。麻酔科はかつて外科系医局に隷属し、単独の講座(医局)としての存在が許されていませんでした。つまり麻酔科学会が存在していません。医療が高度化し、昭和も半ば過ぎたころ全世界的に麻酔科が外科系医局から独立を勝ち得ました。麻酔科学会の誕生です。これは20世紀最大の医療やその制度における革新的慶事です。それを先祖返りさせるとは何事だ!安全管理をなんと心得る!・・・。独立戦争を勝ち抜いた直後のアメリカ合衆国の勢いです。産婦人科は外科、内科に次ぐ由緒ある診療科で、メジャーと呼ばれます。筆者がかつて所属した産婦人科医局は優に百年の歴史を有し輝かしい実績を残しています。ます。「弱小診療科と格が違うんだ!」双方からお小言が筆者の耳にビシビシ入り込み、今少し涙ぐんでいます。対策その4;水と油には石鹸。
超えられない壁はありません
かつて大学産婦人科の医局では婦人科悪性腫瘍の手術が出来たら産婦人科医として一人前、開業結構ですよ、と考えられていました。この医局で教えることはおしまいで、後は自分で頑張って、という意味です。悲しいですがその感覚でお産を扱う令和の産婦人科個人開業はもうできません。また産科診療のガイドラインがここ数年来急速に整備されつつあります。緊急帝王切開手術に関する基準も改められ、昭和の感覚とは全く別物です。より正確な対応が求められ、お産を扱う産婦人科医師は常に緊張しています。人手不足の上に無痛分娩への参画を求められ困っている麻酔科、令和の厳しい産科救急の基準に困っている産婦人科、双方の有効な解決策に新麻酔産婦人科医師キャリアパスはなりえると思います。残念なことですが先ほど述べたようにそもそも双方の学会は相互理解が進まずあまり仲良しではありません。大きな溝、立ちふさがる壁がゆく手を阻みます。大学医局で麻酔科、産婦人科双方の専門研修を有機的に行うことは至難の業です。産婦人科、麻酔科双方の残念な意識が将来性ある、産科救急学、産科麻酔、無痛分娩習得を目指す優秀な人材を遠ざけていることにもなります。
(Amazonより画像をコピーしました。)
東京メトロホームページ内九段下駅より引用。
一見すると超えられない壁が真ん中で邪魔する地下鉄の駅がつい最近までありました。同じ駅なのに運営する会社が違うため隣同士の路線の中間に位置する駅ホームの中央壁が乗り換えを著しく困難にしていました。役人達の論理はいちいちもっともでしたが優秀な元都知事のひと声でホーム中央を遮る壁はきれいに消え去りました。この手法で麻酔科と産婦人科の壁がなくなって、結果として新麻酔産婦人科医師キャリアパスが可能となる日が来ることを切に願ってやみません。具体的には日本産科麻酔学会と日本周産期麻酔学会の学会レベルでの相互バックアップが必要です。その恩恵を受けるのは無痛分娩と緊急帝王切開手術だけにとどまりません。痛みが和らぎさわやかなまなざしに戻る母の息遣い、命を救われこの世へ生まれてきた赤ちゃんの元気な鳴き声は大汗をかく我々へのせめてもの感謝の歌声です。
Image Garageより
最後に
今回の「ああ無痛分娩応援歌」では無痛分娩の実施率が高い海外先進諸国の麻酔科医キャリアパスや無痛分娩の担い手の比較検討なども取り上げようと思っていましたが、残念ながら紙面もつきました。医療経済学は筆者の専門ではないのですが、それら各国の手法は医療資源の極端な集約化が進み同時に実質医療崩壊すれすれの局面を迎えているようです。そのまま安易に日本のモデルに取り入れてもデメリットが勝ってしまうのではないかと個人的には思っています。
愚痴がつい長くなりました。無痛分娩は人類にとって目の前にある未だ登り切っていない栄光のステップです。逆にこれを無視した場合、日本の産婦人科医療だけは先進国の中で残念かつ決定的な遅れを帰する結果となります。21世紀の日本人は20世紀の日本人が成し遂げた遺産を食いつぶすだけではいけません。昭和流の考えで無痛分娩をすりつぶすか、令和流の考えでしがらみを解決し、困難の塔を登ってゆくかは今の私たちにかかっています。少しの工夫を惜しまなければ暗闇の向こうに一筋の光がもう見えています。逆にこの状況が続くと真に無痛分娩を必要としているこれからの世代、私たちの大切な子供やその子孫が我々の残したつけ..を自らが払うことになります。いけないですね。皆さんも一緒にお考えいただければ幸いです。この駄文が私たちの大切な次世代への応援歌になることを願ってやみません。
追記。寒い冬に久しぶりに新しいノートパソコンを買い、行きつけのカフェで特別冷えたアイスコーヒーを飲んだ。あまりにまずくて底冷えした。そのせいで思わぬ駄文となった記念に追記す。
文責 蔵持和也
令和5年11月29日 改訂版